小さな喧嘩してますか?
必要以上に自分たちで大問題にしてしまっていることはないでしょうか?
どんな夫婦もそれぞれ違う親の下で育ったわけで、
考え方やそれに伴う行動が違うのは当たり前です。
ですから、夫婦のどちらかが気持ちを飲み込まない限り、
喧嘩とはいかないまでもちょっとした衝突は絶対に起きるはずです。
一見仲の良い夫婦であっても、
実は小さい問題で済むような話を大問題に発展させている最中であることが多いです。
衝突が起きないのは本当の対話がないからです。
多くの場合どちらか一方が我慢していることが多いです。
我慢は無意識のうちに「恨み」に変わります。
どちらか一方が我慢しているから一見仲の良い夫婦になっていただけです。
恨みに変われば遠くない将来にいつか必ず爆発します。
感情がある限り、仏でもない限り爆発します。
そもそも感情があるから我慢という行為が生まれるわけです。
丸く収めてもその場しのぎでしかなく、 数ヶ月後数年後に問題が大きくなって戻ってきます。
ふと我慢していた側がちょっと主張した時に、
パートナーは「あれ?この人急にどうしちゃったの?」と感じます。
ちょっとしたことなのですが。
実際は「急」ではないですし、 前々から蓄積されていたことです。
その二人の温度差によってちょっとした衝突が大問題に発展してしまうのです。
そして小さい問題小さい衝突を乗り越えていく経験をしないままに大問題に直面するため、 大問題を解決する術を知りません。
多くの場合お付き合いを始める時には、 共通点があって居心地が良いと感じて付き合うものです。
まったくの正反対だから補い合っていける、 というそれが決定的な結婚の理由にはなかなかならないですよね?
正反対だと感じつつもその中にも共通点があるから結婚しようと思うわけです。
ちょっとした衝突はあった方が良いですよ。
自分たちがまったく異なる人物だということ思い出させてくれますし、
大問題が起きた時の練習にもなりますよ。
夫婦間に無償の愛はない
親子には無償の愛がありますが、夫婦にはありません。
もちろん、いろいろな問題をご相談で見てきていますから、
「すべての親子に無償の愛がある」とは言いませんが、
血が繋がっていないという点で、
夫婦の方が親子よりも無償の愛があるとは言えません。
本当は「夫婦にも無償の愛はある」と言いたいところですが、
「無償の愛はない」と思っていた方が、
お互いに過剰な期待をしないので、
期待を裏切られた時の余計な恨みを生み出さなくてすみます。
「恨み」は我慢することだけでなく、期待を裏切られた時にも生まれます。
期待するから「恨み」が生まれます。
夫婦間では「あなたは私に○○して当たり前」なんてことはないのです。
さらに我慢した側は「自分は器が大きい」、と思い、
パートナーは「なんて器が大きい人なんだ」、と思いますが、
決して真実的には器が大きいわけではなく、
我慢した側は夫婦間で作ってはいけない上下関係を自ら作り出してしまっていて、
しかも下になってしまいます。
パートナーはそれまでの状態が「当たり前」になるため、
我慢する側はこれまでしてきたわずかの主張以上のことは主張できなくなります。
自分で自分の首を絞めていることになります。
パートナーにとっては、
我慢した側の我慢している姿が真の姿だと思っています。
しかし我慢した側は本当の自分ではありませんから、
常に自分を偽って大きく見せたりと大変なのです。
普段から本当の自分で生きていないと、
偽りの自分を愛された場合に偽りの自分を演じ続けなければいけなくなるのです。
なぜ我慢してしまうのか、
なぜ偽りの器の大きい自分を演じてしまうのか、
理由を明らかにすることが重要です。
パートナーへの恐れなのか。
なぜ恐れるのか。
「ごめんなさい」という謝り癖も上下関係を生む!?
パートナーへの恐れからなのか、
自分を責める癖からなのか、
自己肯定感の低さからなのか、
見捨てられ不安からなのか、
否定されて育った等の家庭環境からなのか、
原因は様々ありますが、
謝るべき場面でない時に「ごめんなさい」をつい口にしてしまうことはありませんか?
だとしたら少し注意が必要です。
自分が悪いわけではないと頭でわかっていても、
何か相手から否定的なことを言われるのではないかと感じ、
「とりあえず謝っておけば否定されなくて済む」
「先に謝っておけば大丈夫」
と思い、「ごめんなさい」を多用していないでしょうか?
謝るべき場面で謝るのはもちろん大事ですが、
謝るべき場面でない時に「ごめんなさい」を多用すると、
夫婦関係において自ら下になっていってしまうことで上下関係を作ってしまう可能性があります。
必ずしも「ごめんなさい」を多用することで必ず下になるとは限りませんが、注意は必要だと思います。
次ページのモラハラにも関連することですが、
自ら下になっていってしまうことで、モラハラ気質のある人のモラハラ気質を育ててしまう可能性があります。
また、自ら下になっていってしまうことで、本来モラハラ気質のない人にもモラハラ気質を目覚めさせかねません。
なぜかモラハラ気質のある人と一緒になってしまうという方は、
もしかすると自分がパートナーをモラハラ加害者にしてしまっている可能性もあるのではないかということを頭に入れて生活してください。
自ら下になることで相対的にパートナーが上になった気になってしまい、モラハラ気質が目覚めてしまうのです。
よく冷静に思い返してみると、
あなたが言っているその「ごめんなさい」、
「ありがとう」に変換できないでしょうか?
すべてではないにしろ、
本来ならば謝罪ではなく感謝する場面だったのではないか、
ということはなかったでしょうか?
ぜひ思い返してみたり、意識して生活してみてください。
こういったちょっとしたことで上下関係を回避できることがあります。
言われる方にしても「ありがとう」の方が気持ちが良いということもあると思います。
「ありがとう」と言うことさえも、
モラハラ気質のある人に上になった気にさせてしまうこともあるかもしれませんが、
少なくとも「ごめんなさい」よりは影響は小さいと思いますし、
モラハラ気質のない人にモラハラ気質を目覚めさせることは最低でも回避できると思います。
そもそも「ありがとう」と言われて上になった気になってしまう人と付き合う必要があるのかということも考えないといけないですよね。
以上を踏まえると、
共依存やアダルトチルドレンの特徴をもった方は、
謝るべき時とそうでない時の区別がつくようにすることが大事、
ということになります。
とにかく言えることは、
必要以上に卑屈にならないように、
ということです。
謙虚にはなっても卑屈にはならない、
を心がけてください。
夫婦間のバランスを取る方法
バランスが崩れる夫婦にはどちらかが共依存者であることが多いです。
自分の意見は必ず通るものと考えている人、
がいる一方で、
自分の意見なんて言ったら嫌われると考える人、
もいます。
育ってきた環境にもよりますが、これは両方とも問題ありです。
「自分の意見は通る」と考えている人は依存的です。
相手はなんでも言うことを聞いてくれるという甘えがあります。
経験的にこちらはなかなか改善しにくいですし、
改善しようとしない人が多いです。
私の理念からしても、
自分の意見をあまり主張できない側、
相手の言いなりになってしまう側、
を救いたいと思っています。
と言いますか、
こちら側の方が改善しやすいですし、
こちら側が改善されれば、相手も改善されることが多いです。
「自分の意見を言ったら嫌われる」
という考え方はよろしくないです。
自分の意見は必ずしも通るわけではないという考えは持って良いのですが。
依存する人が出てきてしまうのは、
その依存を受け入れてしまう人がいるからです。
受け入れる側は、依存してくれる「人」に依存するわけです。
「共依存」という言葉が生まれる所以です。
いつも相手の意見の言いなりになっていると、
相手も当然自分の意見を聞いてくれることが当たり前になりますし、
言いなりになっておけば丸くおさまると考えていると、
自分の意見があることさえわからなくなってしまいます。
何も考えなくなってしまいます。
最低でも自分の意見を持つこと、
そして少しずつで良いので主張してみる、
これが大事です。
当たり前のことを言っているように感じるかと思いますが、
共依存の人は相手の意見を受け入れることが癖になってしまっているので、
なかなかこれが難しいことなのです。
反発しなさい、と言っているわけではありません。
通る通らないは問題ではなく、主張することに意味があります。
依存する側は、いつも受け入れる側が何も意見を持っていないと感じるから、
自分の意見が何でも通るものと考えてしまうのです。
上下関係ががっちりできてしまう前に、自分の意見を主張してください。
共依存で悩むあなたに「とことん付き合う」の精神で活動。あらゆるジャンルの学びから日常生活におけるささいな気付きまで、すべてをカウンセリングに活かす貪欲さを意識。 機能不全家庭で育ち、大学時代に共依存を研究、銀行員を経て、不倫をされ離婚したことをきっかけに現在のカウンセラーの道へ。7年間で約1,500名、カウンセリング回数約10,000回の経験から得たものを還元できるよう尽力。現在は再婚し、子育てから多くのことを学ぶ日々、そして感謝。→詳しいプロフィールはこちら
関連ページ 共依存脱却の教科書 夫婦円満豆知識 「共依存」克服への第一歩